1933年のレトロ秘話!ベティス初のスコアレスドローとマドリードの英国人監督に浴びせられた「酒とタバコ」の風刺
レアル・ベティスの長い歴史において、非常に奇妙でユニークな記録があります。
ベティスが初めてプリメーラ(1部リーグ)に昇格した1932-33シーズン。当時ベティスの本拠地は「パトロナート・オブレロ・スタジアム(通称:ラ・ウエルタ・デル・フライレ)」にありました。
1933年2月19日、第13節。そこへやってきたのが、連覇を狙って首位を独走するレアル・マドリードでした。当時のベティスはホームゲームにおいて、それまでコパ・デル・レイ(国王杯)で19試合、2部リーグで27試合、1部で6試合の計52試合を戦っており、そのすべての試合で必ずゴールが生まれていました。しかし、この王者マドリードの訪問によって、スタジアムの歴史上、初めて電光掲示板の担当者が一切仕事をしなくていい「0-0のスコアレスドロー」が記録されることになりました。
この一戦は、両チームの指揮官にとっても非常に因縁深いものでした。ベティスを率いていたのは、のちに1935年にベティス史上唯一のリーグタイトルをもたらすことになるアイルランド人のパトリック・ジョセフ・オコンネル。そしてマドリードを率いていたのは、イギリス人のロバート・エドウィン・ファース。不思議なことに、二人ともスペインでの指導者キャリアの始まりは、カンタブリア地方のラシン・サンタンデールでした。
試合前、メディアはこのビッグマッチに大いなる期待を寄せていました。マドリードの圧倒的な強さを認めつつも、残留争いで一息ついたばかりのベティスがホームで見せる粘り強さを警戒。当時の週刊誌は『今回のベティス戦は一筋縄ではいかない。だからこそマドリードがその真価を証明する絶好の機会だ。このチームは厳しい上り坂であればあるほど、自らの力で駆け上がることができるタフさを持っている』と報じていました。
しかし、実際にキックオフを迎えると、サポーターの熱狂はすぐに失望へと変わりました。両チームとも動きが非常に重く、試合は退屈極まりない凡戦となりました。マドリードのスターたちの輝きは消え失せ、試合終盤に焦りから互いに攻め立てたもののゴールは割れず。ベティス側ではFWティミミが孤軍奮闘したものの名手リカルド・サモラの神セーブに阻まれ、マドリード側もサミティエールやレゲイロが鋭いシュートを放つも、ベティスの守護神ウルキアガが立ちはだかりました。
セビリア現地では、王者から勝ち点1を奪ったことで残留に向けて「価値ある引き分け」と歓迎されましたが、マドリードのメディアは黙っていませんでした。リーグ首位を走っているにもかかわらず、退屈な戦術を披露した英国人指揮官ミスター・ファースに対して、辛辣な風刺記事が紙面に掲載されたのです。
『レオンシートの負傷により、ファース氏は重大な決断を迫られた。イギリス人の彼は、山高帽をかぶるわけでもなく、パイプをふかすわけでもない。だから、ボルサリーノの帽子を深くかぶり、わずか70センティモの安タバコから立ち上る紫煙を目で追いかけるしか手がなかった。そして、上質なリキュールを前にしたイギリス人がそうするように、彼は数杯の酒をあおり、高尚な哲学者のように考えにふけったのだ。だが、この模範的な男をこれ以上苦しめるのはよそう。彼のような人物に、これほど多くのことを立て続けに考えさせるのはあまりにも酷なことだ。イエス』
このイギリス人への強烈な皮肉を込めた風刺は、当時のレトロなフットボール界を物語る象徴的なエピソードとして語り継がれています。
(via MARCA)
【本日の総括】
スタジアムを賑わせるピッチ外の騒動がラ・リーガ内外で大きな注目を集めています。全米オープンでのインフルエンサーの乱入やマナー崩壊に対する選手たちの抗議は、スポーツとファンエンターテインメントのあり方に深い問いを投げかけました。一方、バルセロナの新星ゴードンが見せる驚異的な謙虚さと適応力、アロンソがホンダに突きつけた復活期限の厳しい要求は、それぞれのプロ意識を際立たせています。SEATブランドの存続をめぐる情緒的な動揺や、1933年のレトロな風刺エピソードは、フットボールやクラブが人々の生活と歴史にどれほど密接に根ざしているかを改めて教えてくれます。