グリーズマンのソシエダ時代、金髪サーファー風の少年がいかにしてマテ茶を学んだか
アントワーヌ・グリーズマンのレアル・ソシエダ時代の興味深いエピソードが、当時の関係者によって明かされた。2009年の夏、レアル・ソシエダのスポーツディレクターだったロベルト・オラベは、フランスのトーナメントでスカウトから『非常に優秀な少年がいるが、どうすればいい?』という電話を受けた。オラベがテスト期間を提案してやってきたその少年は、オラベによれば、サッカー選手というよりサーファーのようだったという。『長く逆立てた金髪に、体とは不釣り合いな大きな緑色のスパイクを履いていた』と彼は振り返る。当時フランスでは大きくて強い選手が求められており、小柄な彼はリヨンやソショー、オセールなど多くのクラブから入団を断られていた。13歳で家族と離れ、1000キロも離れた地へやってきた彼は、最初はホームシックで頻繁に泣いていた。父親が空港まで送る際、高速道路の料金所の前で『止めるか、それとも続けるか?』と尋ねると、彼は泣きながらも常に『進み続けたい』と答えていたという。その後、マルティン・ラサルテ監督の要求でトップチームに引き上げられた彼は、親善試合で途中出場から2ゴールを決め、チームメイトのウルグアイ人FWカルロス・ブエノを驚かせた。ラサルテ監督から『彼が我々のチームに残るから、彼の面倒を見てやってくれ』と頼まれたブエノは、スペイン語がほとんど話せない10歳年下の少年に『おいで、俺の隣に座れ』と声をかけた。こうして二人の深い絆が生まれた。ブエノは彼に初めてマテ茶を飲ませた時のことを笑いながら語る。『車の中で彼がずっと見ていて、「一口飲ませてくれない?」と言ってきたんだ。でも最初の一口はウルグアイ人でも好きじゃないから、「もし車の中で吐き出したら、ここで降りて練習場まで歩いて行けよ」と警告したんだ』。また、ブエノは彼にヘディングの仕方も指導した。『ある日、彼を居残りに誘ったら、ヘディングのやり方を知らなかった。だから、頭を動かさずに固定して、ディフェンダーより一秒早くジャンプするように教えたんだ』と語る。グリーズマンはブエノからペニャロールへの情熱も受け継ぎ、パソコンで試合を見てはバルコニーに出て応援歌を歌っていたという。さらにはクリスマスにサンタクロースの格好をしてチーム全員にプレゼントを持って現れたこともあったという。オラベは『彼が成し遂げたことは彼自身が一人でやったことだ。彼は生存者だ』と、その不屈の精神と適応力を称賛している。(via AS)
アルティドールが明かすビジャレアル時代の試練、朝食が少なすぎて6ヶ月間飢えていた日々
ジョジー・アルティドールが2008年の夏にビジャレアルCFに加入した際、彼は18歳で、ニューヨーク・レッドブルズからやってきたアメリカサッカー界の大きな希望として紹介された。しかし、彼が直面しなければならなかった最大の課題は、ピッチ上の戦術や技術ではなく、スペインの日常生活、特に食文化の劇的な違いだった。YouTubeのUS Soccerのインタビューで、彼はビジャレアルでのカルチャーショックについて笑いながらも率直に語った。『初めての朝食は絶対に忘れない。下へ降りていくと、小さなトーストの欠片、ハム、チーズがあるだけだった。「シリアルはどこ?卵はどこ?」と探したけれど、そんなものは一切なかった』と振り返っている。アメリカでのボリューム満点な朝食に慣れていた彼にとって、チームの合宿での食事はあまりにも少なすぎたのだ。彼はさらに続けて、『6ヶ月間、お腹を空かせて目が覚めていた!死にそうなほど飢えていたんだ。ベーグルもない。そんなものは何もない。すべてが比例しているような感じだった』と告白している。このエピソードは、若い外国人選手が直面する適応の難しさを端的に表している。スポーツ面でも、ラ・リーガのトップを争うビジャレアルの緻密な戦術と高い技術要求に対して、彼のパワーとスピードのプレースタイルは適合せず、アメリカ人として初めてスペインのリーグで得点するという歴史的快挙は成し遂げたものの、出場機会は限られていた。その後、彼はAZアルクマールへの移籍などを経て、ストライカーとしての本来の姿を取り戻していった。彼が明かした朝食のエピソードは、数百万ドルで移籍してきた若き才能が、実はシリアルや卵がないというごく些細な日常の変化に苦しんでいたという、国際的なサッカー界の知られざる裏側を浮き彫りにしている。(via SPORT)