弾圧に倒れた草創期の功労者たち

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内戦の渦中で弾圧を受け、命を落としたオサスナ関係者の記録は極めて凄惨である。クラブの象徴的な存在であった多くの功労者が犠牲となった。

クラブの名称である「オサスナ(オサスナ)」の名付け親であり、秘書を務めていたエラディオ・シルベティ(Eladio Zilbeti)は、1937年1月に処刑された。また、オサスナの第3代会長を務めたナタリオ・カジュエラ(Natalio Cayuela)は、1936年8月に起きたバルカルデラの虐殺において命を奪われた。

さらに、バリトン歌手として文化面でも活躍し、クラブ役員として試合告知ポスターの制作なども手掛けていたラモン・ベンガライ(Ramón Bengaray)は、人民戦線のリーダーでもあったため標的となり、フランスへの逃亡を図る途中のムニアイン・デ・ゲサラスで銃殺された。彼の遺骨は近年発見され、孫娘のマイテ(Maite)がその記憶を語り継いでいる。

このほかにも、創設メンバー幹事のフォルトゥナト・アギレ(Fortunato Aguirre)がタホナールの壁で処刑され、役員のエンリケ・アスティス(Enrique Astiz)が反乱直後に殺害された。副会長のフロレンシオ・アルファロ(Florencio Alfaro)はスリオラの海へ投げ込まれたと伝えられ、創設役員のアルベルト・ロレンソ(Alberto Lorenzo)は1936年8月5日に射殺された。ピッチ上でも、オサスナのゴールキーパーを務めていたフィロメノ・ウルディロス(Filomeno Urdíroz)が処刑されるなど、フロントから選手に至るまで多くの血が流された。(via MARCA)